『同時代批評』時代

1号 1980.6  2号 1980.11
 土曜美術社刊 『詩と思想』増刊という体裁だった。
 2号には、梁石日の「運河」が掲載されている。『タクシー狂躁曲』の第五章である。
梁作品としては『文芸展望』に載った「余震」につづく二作目だったか。  

3号 1981.8
 「暴力はその爛熟においてつみとられねばならない」が掲載された。
北米探偵小説論』の一部に吸収されたパーツ。
 活字になった初めての文章でもある。

 前後して『日本読書新聞』、『映画芸術』への執筆も始まった。
わたしの初期の仕事はこの三つの媒体(その運命)とともにあった
といっても過言ではない。
 この時分のことは、武蔵境から吉祥寺近辺の思い出とセットになっている。
空間的にはさして遠くに動いていない。風景もそれほど激しく変わったわけでもない。
けれど遥か離れた歳月だ。

4号 1982.1  5号 1982.6  6号 1982.11
 5号の八切止夫インタビューは価値がある。聞き手は太田竜。
 平岡さんは以前から書いていたし、このへんから竹中労が精力
的に介入してきた。70年代の「爆弾教祖三馬鹿」が期せずして、
同時代にふたたび並んでしまったことになる。まあ、再結集という
事態にはならなかったけれど。

 7号 1983.5
 対談と銘打っても、ほとんど内実はインタビューである。『新しい時代の文学』を中心とした野間文学の現在地点をうかがった。
 最初に「あなたは学生さんですか」と訊かれたのにはまいった。先制パンチを習慣とする野間氏の対人関係のクセは野間小説ではおなじみの情景でもあるが、まさかわたしごときの若造にまで繰り出してくるとは予想しなかった。挑戦意志の80パーセントはこれで打ち砕かれたといっていい。
 論題はじつに多岐にわたった。頭の回転する速度に発語の速度が伴わないという伝説的な野間話法についていくのがやっとだった。デリダ、マルクス、道元はかろうじて何とかなった。だが、デリダとマラルメになると、相槌を打つ以上のことができない。対談記録に直すと「………」である。先生は、興に乗って、先へ先へとお進みになる。言いかけたセンテンスの語尾が切れないうちに、もう次の論題に移っていかれる。魯鈍な目をしていると、この不勉強者め、と叱咤する視線に突き刺される。
 記録をまとめるのも大変な作業だった。最初にテープ起こしを頼んだ人がまったくジャンル違いのキャラクターで、固有名詞をほとんど聞き取れていないという珍妙な草稿をつくってきた。一例は――「生物学は夜行性で……」。こんなふうに、意味不明の会話が延々とつづくのだ。暗号文よりひどい。夜行性とはヤコブセンのことだと気づくまでかなりの時間を要した。とにかく先生の話には言語学、分子生物学の固有名辞が頻出するのだが、これが全滅。聞き取れなかった部分は不明のままにしておけばいいのに、「夜行性」のように勝手な言葉の置き換えをしているので、余計にシュールな文章の連なりになったわけだ。
 仕方がないので、全部イチから自分で起こし直した。これがまた難航したこと。対座して聞いていればついていけた野間話法がテープで聞きなおしてみると脈絡をつかまえられないところが多々あるのだ。先生の発音の微妙なところがいかにしても言語化できない。十回以上聴いても復元できない箇所が一つか二つ残り、後日、非礼であるけれど、ご本人に直接たしかめていただくことになった。おそるおそる尋ねると、先生は五分ほど沈思にこもった。ウーム。とは聞こえなかったが、内心では、この嘆息をなんどかおつきになったのであろう。そして言った。
 「ここは……わからん」
 親しい野間読者なら、この点々部の沈黙にこめられた混沌たる重量感に圧倒されるであろう。
 「では先生、この部分はいかが処理いたしましょうか」
 結局、不自然な空白が生じないように、その場で修正して、確認していただいた。
 この話には、別口のオチもあって、それはテープ起こしのときのこと。話題が突然、人民戦線事件のことに移って続いていくのだ。「暗い絵」に描かれた時代の周辺だ。おかしい。わたしはそちらに話題を拡げたおぼえは全然なかった。一体どういうことかと現実感をぐらぐらと揺すぶられる想いになった。なんどもこの部分を聞きなおしてようやく了解した。テープがかぶっていたのだ。以前に録音しておいたところが消えないまま、あたかも合成されたかのようにつながっていたのだ。消えていない部分とは、岡庭さんによる野間インタビュー(これは同時代批評の1号に載っている)だ。答える人が同一なので、聞いていて自然につながっていたわけだ。それにしても、テープを通したものとはいえ、岡庭さんとわたしの声の区別が自分でつかなかったのは奇妙なことだった。
 起こした原稿はまだ保管しているはずだが、このテープはどこへやってしまっただろうか。

 8号 1983.8  9号 1983.12
 9号には「本月度文芸誌をシカル」20枚が乗っている。これは一晩でやっつけた。
急遽「6ページ分の埋め草を書いて即日送れ」という岡庭編集長命令にしたがったもの。
自分としては珍しい「文壇ネタ」だ。こうした対話形式の評論ならいくらでも早書きできる
と気づいたころ。と同時に、これが才能なのかという悩みも発生した。

10号 1984.4 表紙と目次。
 「ドキュメンタリとはなにか」の大シンポジウムは、当時の土曜美術社の
小ホールで行なわれた。新宿御苑近くの某所。広々としたガラス窓の明るさ
が「詩と思想」の環境にふさわしかったのかもしれない。さまざまな人士が集
まっては去っていった雑誌だが、この時期あたりに頂点をつくったといえそうだ。
 『プラントと資本主義』は『プラトンと資本主義』の間違い。この種のポカミス
がけっこう多かったことも、手作りメディアならではのことだった。関曠野が
激怒したのは、この誤植のせいだったのかと、今になって思い当たる。
 関東大震災時の朝鮮人虐殺に取材したドキュメンタリ映画『隠された爪跡』
(表紙の写真もこの映画から使った)をつくった呉充功監督の文章はわたしが
依頼したものだ。人に文章を書かせるのはじつに苦労するものだと痛感した。
以降、原稿依頼とかそれに類することはいっさいやっていない。

 『復員文学論』掲載ページ部分。単行本とは図版が異なっているところ。
矢作コミックの出典を調べたのだが、むかしのEQMMのバックナンバーが
見つからない。
 本稿の成り立ちなどに関しては、復刊版の『復員文学論』の後記
に書いたので繰り返さない。
 本になった時のタイトルは『幻視するバリケード』だった。赤坂の歩道橋
を昇るところでタイトル変更を打診されたさいの間の悪い想いは忘れられ
ない。高見順の小説ではないが「いやな感じ」そのものだった。
 なぜか、赤坂や四谷のあたりでラーメンを奢ってもらうことの多い日々だった。
一冊の本が出来上がっていくのとほぼ同時進行で、もう一冊の本の企画が
流れていった。そのタイトルは『二人で見つけた虹が見えないの』だった。
まあ、今ふりかえれば、「なんとかのバリケード」よりは我慢できるという程度か。

11号表紙と裏表紙。1984.8 土曜美術社刊「詩と思想」増刊という形では最後の号となった。 

 12号 1984.12  13号 1985.6  14号 1985.11  土曜美術社が倒産し、
らんぷ舎発行、星雲社発売の形態になった。その間、せきた書房にも間借り
したけれど、時期の記憶があやふやになっている。発行元は次に青峰社に
移り、最終的には青豹書房が立ち上げられた。
 岡庭昇『身体と差別』、塩見鮮一郎『言語と差別』に始まる同時代批評
叢書のシリーズは六冊まで順調に発刊された。細目は、鈴城雅文『写真=紙
の鏡の神話』、高野庸一『戦後転向論』、梁木靖弘『聖なる怪物たち』、鶴崎
敏康『全共闘から対抗社会へ』である。七冊目のわたしの分『戦後批評史』
がゲラの赤入れ半分のところまで行って難破した。運不運というより、
巡り合わせはついてまわるといったほうが良いのか。

 『別冊1』1989.5 『別冊3』1990.2 15号 1991.1  15号から青豹書房発行になった。 
この他に、『別冊2 日常に忍び込む放射能』青峰社 が出ている。
 15号用の「つかこうへい論」は二日ほどで早書きしたように記憶している。同時代批評の
なかでは「野崎に時間の余裕を与えるな」というのが非公式の了解事項であったらしい。
人並みの締切時間を設定すると、一冊分書いてしまうからだ。
 長い間隔が空くあいだ、いくつかの「改革案」がとりざたされた。この時期は岡庭さんのテレ
ビ・ディレクター時代の頂点にあたっていて、早い話が、忙しすぎてとても雑誌の編集にさく
時間を持てなかったためにいくつかのプランが流れてしまったわけだ。編集実務の中心を
担う人材を確保できなかったことも「流動化」の要因だった。
 簡単にいうと、岡庭編集長の責任範囲を軽減して若手スタッフ中心に運営していこうとする
動きもそのなかで生まれた。造反ではなく、とにかく雑誌は続けていこうという意志のあらわ
れだった。向井徹などが中心になり、わたしもプラン練り合わせに付き合った。その時分は、
梁さんやわたしが比較的身軽だったので、相談役みたいな格に置かれた。メンバーの顔合
わせをしたときだったと思う。場所は新宿の「滝沢」がいいだろうと言うと、梁さんの強硬な反
対にあった。「コーヒーなんて高いだけで無駄やないか」。たしかに滝沢のコーヒーの値段な
ら、よそでビールを飲んでもお釣りがくる。こちらはゆったりと時間を過ごせる場所を頭に描い
たのだけれど、コーヒーと煙草で浮かんでくる名案と対価で測れば、一杯千円は釣り合わな
いかもしれないと反省した。やはりわたしは京都の人間だ。在日大阪人の実利的思考に不明
を指摘されたような気がした。
 わたしのほうでは、一方では、『北米探偵小説論』をまとめる最終段階に入っていた頃だ。

 16号 表紙と裏表紙。14号から15、16号実現までの長い空白期に、ずいぶんと多くの原稿を用意し、
それらが期限切れになって代替の原稿にさしかえる、といったことを繰り返していたような気がする。
 最初は座談会にかりだされたが、わたしは『愛のかたち』を書いた頃の武田泰淳のように重たい沈黙の
底に沈んでいて、ほとんど座談メンバーの用をなさなかったようだ。明け方近く別れるさいに、「あんたは
ほんとに喋らん人だね」と岡庭さんに呆れられたのを憶えている。岡庭さんは、そのまま寝る時間もなく、
ベストセラー『飽食の予言』のプロローグに描かれた、背曲がりハマチ養殖現場へのロケに直行した。
思えば運命の夜だった。ほとんど発言もできない鬱屈から顔をあげられなかった自分を後から責めたが
遅かった。
 結局しかし、座談会記録は活字にはならなかった。
 15号はマボロシでありつづけた。
 だいたい同じ時期に次号(15号)用として「空中ブランコに乗る子供たち」50枚を書いた。
 雑誌がちっとも進行しないうちに、同タイトルの単行本のほうが進んでいったので、この原稿はボツにした。
四冊目の本も、それほどすいすいと形になったわけではないが、それ以上に「同時代批評」のほうがフリーズ
を来たしていた。「ブランコ」は最初の50枚ヴァージョンのほうが良かったと編集者のHに言われたことがある。
そう言われるとその気になってくるから不思議だ。
 もう少し後になって、また別の編集プランが進行したさい。一年か、二年は経過していたと思う。二種類の
原稿を用意した。
 一は、小松川事件についての短い原稿。二は、50枚評論のさしかえとして戦後文芸批評と植民地主義
についての論考。後者は、四冊目の本になるはずでマボロシと消えた『戦後批評史』二百五十枚から抜粋した
もの。新しく用意したわけではない。
 この段階の企画も流れ、というか時間がかかりすぎて自然消滅といったほうが近く、それなら小松川事件の
コラムをじっくり書いたほうがいいのではないかという話になった。ところがこちらは当方の責任によってまっ
たく実現のめどが立たなくなる。50枚のスペースのところに三百枚以上書けてしまったからだ。
 また50枚評論のテーマを急遽考える必要に迫られた。

 16号目次。発行の日付は1994年1月になっている。 この雑誌のことは、
梁石日の『終わりなき始まり』に、一つの側面からの証言が刻まれている。また
平岡正明の大長編小説『皇帝円舞曲』にも、圧倒的・専制的なデフォルメをほど
こされた上でだが、何人かの実在モデルが登場させられている。
 ある時代と時代精神のありようは、どちらの書物にも鮮やかだ。
 この号が実質的な終刊号。
 ここに提供したのは、その軌跡の一端のほんの表層にすぎない。データ的
な意義はごくささやかだ。さらにはページの性格上、ごく私的なクロニクルを顧みた
のみである。
 関係各位のすべてに配慮のいきとどかない部分があるだろうことをお詫びしておきたい。

inserted by FC2 system